家が紡ぐ物語 葛飾北斎編 第3回


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ヨーロッパの美術史を動かした北斎
▲葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」すみだ北斎美術館蔵

「家」を通して先人たちの生き様を追いかけてきた連載「家が紡ぐ物語」。
今回11人目にして初めてご紹介するのは、“家にまったく執着がなかった”という人。
時は江戸時代、今よりずっと活気にあふれていた東京・下町でひときわ強い輝きを放った絵師・葛飾北斎です。

生涯における転居回数は93回。
かといって、旅に生きたわけでもなく、転居回数で記録を打ち立てようとしていたわけでもなく、ただただ「家」というものに執着がなかったようです。
北斎は、ほとんどの転居を現・墨田区内で繰り返していました。
彼にとっては町そのものが家のようなものだったのかもしれません。
北斎は家だけでなく、一般的にアイデンティティーと見なされる名前も絵のスタイルも次々と変えていきました。
捉えどころのない存在のど真ん中に強靭(きょうじん)な核を持ち続け、日本国内のみならずヨーロッパのアートシーンにも大きなインパクトを与えた北斎。
なぜ彼はこんなにも自由で、エネルギッシュで、才能のままに生きることができたのでしょうか。

その揺るぎない核とは、いったい何だったのでしょうか。
北斎の人生に思いをはせながら、墨田区に残る足跡をたどってみましょう。

 

大ヒットメーカー北斎

ところで、墨田区内には、北斎が描いた場所16カ所に「すみだが誇る世界の絵師、葛飾北斎が描いた風景をたどろう」と書かれた案内板が立っています。
この案内板をたどって歩くのも、北斎の楽しみ方の一つ。

独立直後の40~47歳に描かれたものと推測されている狂歌絵本『絵本隅田川両岸一覧』も、この案内板に含まれています。

こちらは、『絵本隅田川両岸一覧』の1枚で、納涼の人々でにぎわう両国橋の様子。

そしてこちらが現在の両国橋。
北斎が描いた江戸の熱気を見た後に、この風景を見ると少し寂しく感じますね。

1804(文化元)年頃から、江戸では長編の読み物である読本(よみほん)(*1)が流行しました。
人気を博したのは、曲亭馬琴や柳亭種彦らの花形作家たち。
1807(文化4)年に馬琴と北斎という人気コンビが刊行した『椿説弓張月』は、大ヒットとなります。
挿絵はほとんど墨1色でしたが、若かりし頃に版木職人としての経験を積んだ北斎は、色に頼らずとも素晴らしい作品を仕上げることができました。
クライマックスシーンでは派手な放射状の線で閃光(せんこう)を表すなど、随所に現在のアニメーションのルーツが見られます。

▲曲亭馬琴作・葛飾北斎画「読本『椿説弓張月』続編三」すみだ北斎美術館蔵

1813(文化10)年までの約10年間で北斎が挿絵を描いた読本は193冊。
読本というジャンルの成功は、北斎あってこそだったのでしょう。

『椿説弓張月』を刊行した翌年、北斎は生家の近くに家を購入しました。
北斎が家を買ったのは、人生でこのときだけです。
なぜ購入することになったのか、また、なぜそこを手放して借家暮らしに戻ったのか、非常に興味深いところですが、書き残されていないので謎のままです。

1812(文化9)年、53歳になった北斎は『略画早指南』(初編)を、翌々年には絵手本『北斎漫画』(初編)を刊行しました。
この時期の北斎には弟子が200人ほどいましたが、指導をしている時間がありません。
それで、作られたのがこれらの絵手本でした。

今にも動きだしそうな人々、動物、妖怪など、あらゆるものを描き尽くした『北斎漫画』は爆発的な人気を博し、なんと明治時代にも刊行が続き、最終的には全15編4000カットとなりました。

初版刊行から42年後、すでに北斎亡き1856年、この『北斎漫画』はなんとも幸運な偶然によってパリの銅版画家・フェリックス・ブラックモンと出会います。
ブラックモンが友人のアトリエでたまたま見つけ、その発想とデッサン力に仰天したのが『北斎漫画』だったのです。
なぜ友人宅に『北斎漫画』があったのかといえば、誰かが日本から送った陶磁器のパッキングに使われていたのだそう。
ブラックモンが『北斎漫画』にインスパイアされてデザインした食器は、1867年のパリ万博に出品されて金賞を取るなど、話題になりました。

日本が開国を果たしたのは、ブラックモンが『北斎漫画』と出会った時期とほぼ同じ。
当時、多くの日本美術が海を渡りましたが、とりわけ北斎の作品は熱烈なファンを生み、閉塞(へいそく)感に覆われていたヨーロッパの美術界を揺り動かしました。
ここから生まれたジャポニスムの動きが、やがてアールヌーボーへと発展していったのです。

後々このような展開が訪れるとは知るよしもなく、60代の北斎は相変わらずの貧乏に加え、中風(脳卒中)に倒れますが、すさまじい生命力ではい上がり、黄金時代を迎えました。

1831(天保2)年、72歳の北斎は歴史に残る傑作「冨嶽三十六景」を発表します。
中でも「赤富士」の名で知られる「凱風快晴」や、荒々しい波音が聞こえてくるような「神奈川沖浪裏」は誰もが一度は目にしたことがあるでしょう。

「冨嶽三十六景」は日本中から喝采を浴びただけでなく、世界各国でアーティストたちをインスパイアしました。
「神奈川沖浪裏」に触発されて交響詩『海』を作曲したドビュッシーもその一人。
『海』の初版楽譜の表紙には、「神奈川沖浪裏」がデザインされています。
また、「神奈川沖浪裏」を見たゴッホは「見る者の心臓をひとつかみにする鷲の爪」と評したそうです。

墨田区内には、北斎がこの「冨嶽三十六景」を描いた数カ所にも案内板が立てられています。

こちらは「本所立川」と題された1枚。
当時この辺りは、水運を利用する材木問屋が密集していたとか。
はるかかなたに富士山の姿が見えます。

こちらが現在の様子(二之橋北詰交差点よりやや南、首都高7号高架下)。
まるで北斎マジックが解けたかのように感じますね。

「冨嶽三十六景」の刊行から3年後、75歳の北斎は「冨嶽三十六景」と並ぶ傑作『富嶽百景』を発表しました。
その跋文(ばつぶん)(*2)で北斎は「数え六歳から描かずにはいられぬ性分だったが、七十歳前に描いたものは取るに足りない。七十三歳でようやく生き物がまともに描けるようになった。このまま精進して百数十歳になれば、絵が生きて動き出すほどの域に達するだろう。だから、長生きの神様、どうぞ見守っていてください」という意味の文章を書き残しています。


(*1)もともと上方で流行していたが、1800年代初頭から江戸でも流行した長編小説の版本。日本や中国の説話や伝奇物語を脚色したもので、短いものでも5冊程度、長編ともなると100冊前後の作品もあった
(*2)書物の最後に書く文章。後書き

 

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参考文献
『葛飾北斎 —すみだが生んだ世界の画人—』永田生慈監修(財団法人墨田区文化振興財団 北斎担当発行)
『葛飾北斎伝』飯島虚心(岩波書店)
『葛飾北斎年譜』永田生慈(三彩新社)
『北斎 ある画狂人の生涯』尾崎周道(日本経済新聞出版社)
『伝記を読もう 葛飾北斎』柴田勝茂(あかね書房)
『大江戸パワフル人物伝 葛飾北斎』小和田哲男監修(草土文化)
『コミック版世界の伝記37 葛飾北斎』すみだ北斎美術館監修(ポプラ社)
『東京人 2016年12月号 特集・北斎を歩く』(都市出版)
『和樂 2017年10・11月号 <大特集>天才絵師、北斎のすべて!』(小学館)

取材協力:すみだ北斎美術館
〒130-014 東京都墨田区亀沢2-7-2
・都営地下鉄大江戸線「両国駅」A3出口より徒歩約5分
・JR総武線「両国駅」東口より徒歩約9分
・都営バス・墨田区内循環バス「都営両国駅前停留所」より徒歩約5分
・墨田区内循環バス「すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)停留所」からすぐ

開館時間:9時30分~17時30分(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日、または振り替え休日の場合はその翌平日)、年末年始
観覧料金(常設展):一般400円、高校生・大学生・専門学校生・65歳以上300円、未就学児童・小学生・中学生無料
http://hokusai-museum.jp/
お問い合わせ先:03-5777-8600 (ハローダイヤル)

M0000OG2644(2018.04新)

棚澤明子

棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。