家が紡ぐ物語 葛飾北斎編 第4回

家が紡ぐ物語 葛飾北斎編 第4回

棚澤明子

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北斎、龍になる

※トップ画像は、葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」すみだ北斎美術館蔵

「家」を通して先人たちの生き様を追いかけてきた連載「家が紡ぐ物語」。
今回11人目にして初めてご紹介するのは、“家にまったく執着がなかった”という人。
時は江戸時代、今よりずっと活気にあふれていた東京・下町でひときわ強い輝きを放った絵師・葛飾北斎です。

生涯における転居回数は93回。
かといって、旅に生きたわけでもなく、転居回数で記録を打ち立てようとしていたわけでもなく、ただただ「家」というものに執着がなかったようです。
北斎は、ほとんどの転居を現・墨田区内で繰り返していました。
彼にとっては町そのものが家のようなものだったのかもしれません。
北斎は家だけでなく、一般的にアイデンティティーと見なされる名前も絵のスタイルも次々と変えていきました。
捉えどころのない存在のど真ん中に強靭(きょうじん)な核を持ち続け、日本国内のみならずヨーロッパのアートシーンにも大きなインパクトを与えた北斎。
なぜ彼はこんなにも自由で、エネルギッシュで、才能のままに生きることができたのでしょうか。

その揺るぎない核とは、いったい何だったのでしょうか。
北斎の人生に思いをはせながら、墨田区に残る足跡をたどってみましょう。

北斎のアトリエ拝見

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多い江戸で転居を繰り返しながら、一度も火災に遭ったことがなかった北斎。
「自分には火事除けの神様がついている」と豪語して、おまじないの札を描いて配ったこともあったと言われていますが、56回目に移り住んだ本所達磨横町の家で、80歳の北斎は生まれて初めての火災に遭いました。
絵筆1本を持って逃げ出した北斎は「これだけあれば生きていける」とにやりと笑ったそうです。

その後、北斎は娘の応為と共に生家から程近い榛馬場(はんのきばば)に移り住みました。
2人が住んでいた榛馬場のすぐ脇には今も榛稲荷神社が残っています。

榛稲荷神社

▲榛稲荷神社

北斎が住んでいたことを紹介する案内板

▲境内にはここに北斎が住んでいたことを紹介する案内板が設置されている

当時の暮らしの様子は、弟子・露木為一によって「北斎仮宅之図」に描かれています。

露木為一「北斎仮宅之図」

▲露木為一「北斎仮宅之図」国立国会図書館蔵

ここに描かれている北斎は81歳、応為は50歳前後だといわれています。
「冨嶽三十六景」などの傑作を生み出していた北斎ですが、貧しい暮らしをしていた様子がその絵から見て取れます。

北斎は、こたつ布団をひっかぶって描くのが常だったとか。
娘の応為はきせるを持って立て膝、どこかふてぶてしい様子が見てとれます。
『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)には次のように描かれていました。

「室内のさまは、いづれもあれはてゝ、(中略)蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」

「すみだ北斎美術館」の4階では、この絵をもとに北斎の家が再現されています。
こちらも必見でしょう。

「北斎仮宅之図」に描かれた絵の様子を再現

▲「北斎仮宅之図」に描かれた絵にそっくり!

散らかった紙屑

▲片付けが大嫌いだったという北斎と応為。散らかった室内もリアルに再現

絵を描く北斎の横にある寝具

▲絵を描く北斎の横には寝具が。狭い四畳半がリビングでもあり、ダイニングでもあり、寝室でもあるという江戸時代の長屋の生活が垣間見える

絵を描く北斎の横

晩年の北斎と共に暮らした応為は、北斎のDNAを受け継いだ唯一の後継者といわれる絵師。
一度は絵師のもとに嫁ぐものの、家事が苦手な上に夫の絵が自分より下手だと笑うような性格で、早々に三行半を突き付けられたとも、逆に突き付けたともいわれています。
晩年の北斎のアシスタント的な働きをこなし、北斎にとっては欠かすことのできない存在でした。

ちなみに、榛稲荷神社から通り1本挟んで東京東信用金庫両国支店があります。
ここには「ひがしん北斎ギャラリー」が設置されていて、建物の内部だけでなく壁面にも北斎作品のレプリカが展示されています。

街ぐるみで、北斎の魅力を発信していこうという思いが伝わってきました。

北斎は1849(嘉永2)年4月18日、浅草聖天町遍照院境内の住まいで90年の生涯を閉じました。
最後に「あと10年、いやせめてあと5年生かしてくれたら、本物の絵描きになれたのに」とつぶやいたそうです。

江戸時代の平均寿命は50歳前後。
描きたいという、そのエネルギーが、北斎の寿命を超人的なレベルにまで引き延ばしたとしか思えません。

絶筆は、肉筆画「富士越龍図」。
生涯描き続けた富士から黒い雲とともに天へと昇る龍は、北斎自らの姿としか思えません。
見る人の魂をわしづかみにするような力を秘めた、渾身(こんしん)の一作です。

天に昇った北斎に、ビッグニュースがあります。

1998年、アメリカのフォトジャーナル誌『LIFE』は「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に、唯一の日本人として86位に北斎をリストアップしました。
モネもルノワールもゴッホも選ばれない中での選出でした。

もう一つ、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、日本のパスポートの査証欄ページのデザインが「冨嶽三十六景」に変更されるというのも、ビッグニュースでしょう。
富にも名誉にも関心を持たなかった北斎のこと、こんなニュースを聞いても、にやりと笑うだけで立ち去ってしまうかもしれませんが。

さて、北斎を巡る町歩きもそろそろ日が暮れてきました。
スタート地点の北斎通りに戻りましょう。
通り沿いには、北斎の名を冠したフリースペースや甘味処があり、一休みすることができます。
散歩の途中で見つけた「北斎」の名を冠する饅頭やおかきなども素敵なお土産になりそうですね。

「北斎」の名を冠する饅頭やおかき

北斎が描いた富士山は今回の北斎の足跡をたどる旅の中では最後まで望むことができませんでしたが、ライトアップされたスカイツリーが「すみだ北斎美術館」を見守っていました。

「すみだ北斎美術館」を見守るライトアップされたスカイツリー

転居回数93回、改号30回以上。
家や名前にアイデンティティーを求めるという発想が皆無だった北斎。
描いても描いても飽き足らず、もっともっと、と渇望した北斎。
生涯を通して自由で、エネルギッシュだったのは、それゆえなのでしょう。
どこか息苦しい平成の世を生きる私たちがここまで北斎に引き込まれるのは、その生き様に憧れるからなのかもしれません。

江戸と東京、時を越えて行き来しながら、ほんの少し北斎の魂に触れたような気がした1日でした。

参考文献
『葛飾北斎 —すみだが生んだ世界の画人—』永田生慈監修(財団法人墨田区文化振興財団 北斎担当発行)
『葛飾北斎伝』飯島虚心(岩波書店)
『葛飾北斎年譜』永田生慈(三彩新社)
『北斎 ある画狂人の生涯』尾崎周道(日本経済新聞出版社)
『伝記を読もう 葛飾北斎』柴田勝茂(あかね書房)
『大江戸パワフル人物伝 葛飾北斎』小和田哲男監修(草土文化)
『コミック版世界の伝記37 葛飾北斎』すみだ北斎美術館監修(ポプラ社)
『東京人 2016年12月号 特集・北斎を歩く』(都市出版)
『和樂 2017年10・11月号 <大特集>天才絵師、北斎のすべて!』(小学館)

取材協力:すみだ北斎美術館

〒130-014 東京都墨田区亀沢2-7-2
・都営地下鉄大江戸線「両国駅」A3出口より徒歩約5分
・JR総武線「両国駅」東口より徒歩約9分
・都営バス・墨田区内循環バス「都営両国駅前停留所」より徒歩約5分
・墨田区内循環バス「すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)停留所」からすぐ
開館時間:9時30分~17時30分(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日、または振り替え休日の場合はその翌平日)、年末年始
観覧料金(常設展):一般400円、高校生・大学生・専門学校生・65歳以上300円、未就学児童・小学生・中学生無料

公開日:2018年06月25日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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