家が紡ぐ物語 朝倉文夫編 第1回

家が紡ぐ物語 朝倉文夫編 第1回

棚澤明子

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近代日本彫刻界を牽引した朝倉文夫

朝倉文夫

▲朝倉文夫(1883~1964)

古き良き東京下町の面影を残す谷中、根津、千駄木。
懐かしい風景にほっと心がほぐれたり、新たな発見にぐいぐい引きつけられたり、歩けば歩くほどその魅力に深くはまり込んでしまうこの界隈の散歩コースは、その頭文字を取って「谷根千」と呼ばれ、老若男女を問わず人気です。

その中でも圧倒的な存在感を放っているのが、谷中にある朝倉彫塑館。
日本を代表する彫刻家・朝倉文夫が設計から手掛け、29年間暮らしたアトリエ兼住居です。
形式に縛られることなく独自の美意識で作り上げられたこの建築は、細部に至るまでが朝倉流。

この自由気ままな朝倉流を、ご本人は“アサクリック”と呼んでいたのだそう。
随所にちりばめられた“アサクリック”を観察していると、いつの間にか猫を抱いた丸眼鏡の朝倉文夫がそばにいるような錯覚に陥ってしまう……不思議な魅力に満ちた邸宅です。

朝倉文夫の生涯

朝倉文夫は、1883(明治16)年、大分県大野郡池田村(現・豊後大野市)で11人きょうだいの第5子として誕生しました。

5歳の頃から祖父に仕込まれた碁で頭角を現し、12歳になる頃には近所の老人たちからも一目置かれる存在だったと言われています。
器用なたちで、碁だけでなく、将棋、俳句、釣り、撃剣、柔道、生け花……と、あらゆる分野でめきめきと頭角を現しました。

けれども、興味のない勉強にはまったく手を付けず、中学校を3度も落第してしまったそうです。

さすがに村に居づらくなった朝倉少年は、1902年、19歳のときに中学校を中退し、東京・谷中で彫塑家として独り立ちしていた実兄・渡辺長男(おさお)を頼って上京しました。

内心では、正岡子規を訪ねて弟子になり、俳句で身を立てようという腹積もりだったそうです。

しかし、上京してすぐ耳にしたのは、正岡子規の訃報でした。
上京するなり目標を見失った朝倉でしたが、兄の制作活動に大きな刺激を受け、1903年、東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻撰科に入学します。
災い転じて……と言うべきか、3度の落第と子規の死が、朝倉が彫刻家としてスタートラインに立つきっかけとなったのです。

さっそく兄を超える才能を発揮し始めた朝倉は、3年生になると兄の家を出て、鍛金や石膏の原型を作るアルバイトで生計を立てるようになりました。

海外に輸出する動物の石膏原型を大量に作って貿易商に売り、当時学生の学費と生活費が合わせて月15円程度だった時代に、月60~300円を稼いでいたこともあったそうです。
「あの時代の貿易の動物原型は、私が少なくとも三分の一はこしらえたろう」(『私の履歴書』より)とのこと、どこかほほ笑ましいエピソードです。

学生時代から彫刻界の若きエースとして注目を集めていた朝倉は、1907年の卒業と同時に本格的な創作活動に入りました。
同時に、現在朝倉彫塑館のある場所に住居とアトリエを構え、弟子の育成も始めています。
卒業翌年の1908年には、第2回文部省美術展覧会に「闇」を出品し、二等一席を受賞しました。

弱冠25歳の青年がこの権威ある賞を受賞したことで大きな騒ぎになりますが、本人が書き残しているのは、帝国ホテルで開催された招待宴で、初めて西洋料理を目にして、どのように食べればよいのか分からず大いに困ったので“茶の湯の方式”でやってみた、というエピソード。
朝倉らしさがにじみ出ていますね。

1916年からは文展、帝展の審査員を歴任し、1921年には母校である東京美術学校の教授として迎えられました。

その指導ぶりについては、「がむしゃらな朝倉式の教育」「先生が集まって開く会議などは、つまらんことばかりいってるから私は全然出席しなかった」「学校の黒板に滞納の名前が出ている者に十円、十五円と貸してやる。(中略)どれくらい貸し与えたか覚えていないくらいだ」(『私の履歴書』より)と書き残されており、弟子たちからは“おやじ”と呼ばれていました。

現在の朝倉彫塑館が完成したのは1935年のこと。
理想の建築物が完成したときの喜びはどれほどだったことでしょう。
朝倉彫塑塾として多くの弟子たちが集ったこの場所で、朝倉は亡くなるまでの29年間、制作に励みながら家族と共に暮らしました。

「大隈重信像」(早稲田大学内)、「太田道灌像」(東京国際フォーラム内)、「翼」(上野駅グランドコンコース内)、「五代目尾上菊五郎像」「九代目市川團十郎像」(共に東京・歌舞伎座内)など、歴史に残る作品を多々手掛けた朝倉は、1948年、彫刻家として日本で初めて文化勲章を受章します。

1964年に81歳でこの世を去るまで、関東大震災と世界第2次大戦を間に挟みながらも、日本を代表する彫刻家として、また、多くの弟子たちの「おやじ」として、芸術家として大成した2人の娘の父親として、明治から昭和への濃厚な日々を駆け抜けたエネルギッシュな人生でした。

朝倉亡き後、朝倉彫塑館は2001年に建物が国の有形文化財に、2008年に敷地全体が国の名勝に指定されました。
2009~13年には保存修復工事も行われ、よりいっそう朝倉の息遣いを感じられる空間になっています。

参考
『私の履歴書 文化人6』(日本経済新聞社)
『未定稿 我家吾家物譚』朝倉文夫著(台東区立朝倉彫塑館)
『朝倉文夫文集 彫塑余滴』朝倉文夫著(台東区立朝倉彫塑館)
『朝倉彫塑館ミニガイド』(台東区立朝倉彫塑館)

取材協力:台東区立朝倉彫塑館

所在地:東京都台東区谷中7-18-10
開館時間:9:30~16:30(入館は16:00まで)
入館料:一般500円、小・中・高校生250円
※毎週土曜日は台東区在住・在学の小・中学生とその引率者の入館料無料
休館日:月・木曜日(祝日と重なる場合は翌日)、年末年始、展示替え期間等
※入館時には靴下着用のこと

公開日:2018年10月25日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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