家が紡ぐ物語 夏目漱石編 第2回

家が紡ぐ物語 夏目漱石編 第2回

棚澤明子

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引越しを繰り返した熊本時代

※トップ画像は、夏目漱石(1867~1916) 写真:国立国会図書館蔵

明治の文豪・夏目漱石―――
その名から誰もが最初に思い浮かべるのは、立派な口ひげを蓄え、まるで日本の行く末を案じるかのような憂いを帯びた目をした、あの写真ではないでしょうか。
漱石の人となりはあらゆる言葉で語られてきましたが、そこには常にあの写真から漂う「迷いなくわが道を進むエリート」「イギリス仕込みの近代的な紳士」というイメージが付きまとってきたような気がします。
漱石は、49年の生涯で30回を越える引っ越しをしました。
引っ越しの経緯を一つ一つたどっていくと、周囲に翻弄(ほんろう)されて右往左往している生身の漱石が浮かび上がってきます。
その姿は、誰もが思い浮かべる「文豪・夏目漱石」からは少し離れていて、時に痛々しかったり、時に滑稽だったりします。
漱石はどこから生まれて、どこにたどり着いたのでしょうか。
漱石が暮らした家々を訪ねながら、その人生をひも解いていきましょう。

4年間で6回の引っ越しをした熊本時代

1896年、友人・菅虎雄(すがとらお)の口添えがあり、漱石は熊本の第五高等学校(現・熊本大学)に英語教師として着任します。
同年、松山時代に見合いをしていた中根鏡子と結婚しました。
熊本で暮らした4年の間に住んだ家は、なんと6軒。
新婚の漱石に、いったい何があったのでしょうか?

第1の家(下通町の家)
「あんまり汚い家だと、若い娘が嫌がる」と花嫁の父に注文を付けられて、漱石は結婚式の前に慌てて1軒の家を見つけてきました。家賃は8円(*)。現代でいうところの浴室や木造の蔵、離れの部屋があり、庭にはアオギリやムクノキが植えられた、風情のある家です。
しかし、もとは細川家家老の妾(めかけ)の住まいだったとのこと。この女性が他の男と通じて主の怒りを買い、手討ちにされたという話が残っていたそうです。 漱石と鏡子夫人は、この家で結婚式を挙げました。
身の回りの世話をするお手伝いさんとばあや、人力車を引く車夫も含めて6人が台所仕事をしたり客になったりと慌ただしく、三三九度の杯も1つ足りないという、ささやか過ぎる式だったといいます。
夫妻は4カ月ほど住んだだけで、この家を引き払いました。
お妾さんの幽霊が……という話こそ残されていませんが、家の前が墓地だったこともあり、鏡子夫人がこの“いわくつきの家”を気味悪がったそうです。
現在この場所には「ホテルサンルート熊本」が建ち、入り口に漱石のレリーフが飾られています。

第2の家(合羽町(かっぱまち)の家)
漱石が「名月や13円の家に住む」と詠んだのが、この合羽町の家です。
粗末な家でしたが部屋数だけは多く、新婚家庭にもかかわらず、漱石の同僚である長谷川貞一郎や山川信次郎が下宿していました。
「夫婦で迎える初めてのお正月に長谷川の招いた客が大勢押し寄せ、お正月のごちそうがあっという間に平らげられてしまった」と後に鏡子夫人が語っています。結局は、家賃13円(*)が負担になり、1年しか住むことができませんでした。

第3の家(大江村の家)

ここは、漢詩人でもあった同僚・落合東郭の持ち家で、本人が東京に勤務していたため借りることができました。見渡す限り桑畑が広がるのどかな土地で、家賃も7円50銭(*)と妥当だったようです。夫婦ともに気に入った家でしたが、半年住んだところで落合が戻ることになったため、明け渡さざるを得なくなりました。
この家は、水前寺公園に隣接するジェーンズ邸の敷地内に移築保存されています。

第4の家(井川淵の家)
大江村を引き払った夫妻は、井川淵町にある白川沿いの家に移りました。
この家で暮らしていたときに、大きな事件が起こります。
熊本での慣れない生活や流産で精神が不安定になった鏡子夫人が、白川に身を投げたのです。幸い一命はとりとめましたが、漱石は大きな衝撃を受けました。
鏡子夫人は新婚早々、漱石から「俺は学者で勉強しなければならないから、おまえなんかにかまってはいられない」と宣言されています。漱石の神経衰弱も、大変な負担だったに違いありません。
漱石はこの自殺未遂事件の後しばらくの間、自分と妻の手首をひもで結んで寝るようになり、川の近くに住むのは危ない、と転居を決めました。

第5の家(内坪井の家)
鏡子夫人が「熊本でもっともよかった家」と回想する家で、熊本では最も長く、約1年8カ月にわたって住みました。
長女・筆子が誕生したのもこの家です。
この家は熊本市記念館「夏目漱石内坪井旧居」として公開されており、筆子の産湯に使った井戸などが残されています。

第6の家(北千反畑の家)
熊本で最後の3カ月を過ごした家です。なぜ、気に入っていた内坪井の家を出なければならなかったのか、その理由は書き残されていません。
驚いたことに、ここは現在も一般の住居として使用されているそうです。

(*)1894年(明治27)〜1907年(明治40)、公務員の初任給(諸手当を含まない基本給。高等文官試験に合格した高等官対象)は、50円でした(『値段の明治・大正・昭和風俗史<続>』(朝日新聞社)より)

参考
『文豪・夏目漱石–そのこころとまなざし』江戸東京博物館・東北大学編/朝日新聞社
小冊子「漱石山房の思い出」新宿区地域文化部文化観光国際課
『漱石の思い出』夏目鏡子述・松岡譲筆録/文春文庫
『千駄木の漱石』森まゆみ/ちくま文庫
『漱石とその時代 第三部』江藤淳/新潮選書
「愚陀佛庵」(http://www.bansuisou.org/gudabutsu/about.html
ホテルサンルート熊本HP(http://www.sunroute-kumamoto.jp/
博物館明治村(http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/1-9.html)
サライ公式サイト内「日めくり漱石」(http://serai.jp/tag/夏目漱石

公開日:2017年02月22日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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