家が紡ぐ物語 旧白洲邸 武相荘編 第3回

家が紡ぐ物語 旧白洲邸 武相荘編 第3回

棚澤明子

第2回はこちら ┃ 第4回はこちら

武相荘を歩く(3)

※トップ画像は、写真提供:旧白洲邸武相荘

第2次世界大戦敗戦後、あのマッカーサー元帥と対等に渡り合い、日本国憲法成立に携わる中で「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに言わしめた白洲次郎。
樺山伯爵家の次女として生まれ、骨董(こっとう)を愛し、着物を愛し、数々の書物を残した「当代随一の目利き」と言われた白洲正子。
白洲夫妻がその後半生を暮らした茅葺き屋根の家が、町田市指定史跡として東京都町田市にのこされています。
その名も「武相荘(ぶあいそう)」。

かつて鶴川村と呼ばれていたこの地域が武蔵国と相模国の境目にあったことに、家主の“無愛想”をかけたといわれるネーミングがキラリと光ります。

荒れ果てていたこの農家を買い取り、3人の子どもたちを連れて白洲夫妻が東京・水道橋から移り住んだのは戦時中であった1943年のこと。
疎開の意味合いに加えて、欧米事情に通じていた次郎が敗戦と食糧難を予想して、農業に専念できる環境を選んだことがその大きな理由だといわれています。
イギリス文化の中で青春時代を送った次郎としては、地方に住んで中央の政治に目を光らせるイギリスの“カントリージェントルマン”を地でいこうとしたのかもしれません。

二人は茅葺き屋根の下でどのように暮らしていたのでしょうか。
白洲流、白洲スタイルと、後世の人々が憧れる暮らしの真髄はどこにあるのでしょうか。
白洲夫妻の気配を感じたくて、旧白洲邸・武相荘に足を運んでみました。

白洲夫妻の気配が残る室内へ

白洲夫妻の気配が残る室内

茅葺き屋根をじっくりと眺めたら、母屋の中に入ってみましょう。

靴を脱ぐ前に、立派な上がりかまちが目に入りますね。この板、実は正子の実家の樺山家でまな板として使われていたものなのだとか。
随所に驚くようなエピソードが秘められているのは、どのようなものにも命が宿っていると考えていた正子がさまざまなものを再利用していたからこそ、なのでしょう。

足を踏み入れたところは白いタイル張りで床暖房が施されていますが、かつては土間だったとのこと。前述(第2回)の桂子さんの言葉にもある通り、茅葺き屋根に土間という農家の冬は、想像を超える寒さだったに違いありません。

かつては土間だった部屋

一部がぽっかりと開いた天井からは屋根裏がのぞき、茅葺き屋根の基礎部分をちらりと見ることができます。2006年12月から始まった屋根の葺き替えの際には、桂子さんが「屋根裏の一番下の部分は、白洲たちが引っ越してきた60年前の葦や藁縄がしっかり役目を果たしており、今さらながら古代より引き継がれてきた生活文化には驚かされます」(『武相荘のひとりごと』より)と書いていますが、わずかに見えるこの屋根裏からも、日本に伝わる建築文化の一端に触れることができます。

北側には正子の書斎が残されています。
膨大な蔵書に囲まれた居心地の良さそうな文机を眺めていると、小さくもエネルギーにあふれた正子の背中が見えてくるようです。

正子の書斎

書斎のふすまについては、白洲夫妻らしいエピソードが残っています。ふすまの柄が表と裏で異なり、どちらを表とするかで次郎と正子で意見が分かれたのだそう。「部屋の外に向いた面が当然表だ」と主張する次郎に対して、「私の書斎なのだから、私がいる内側が表だ」と主張した正子。結局、この議論は次郎の勝ちで、ふすまは2枚とも表を外側に向けることになったのですが、次郎の死後、ある日桂子さんが気付くと、2枚とも内側が表になっていたのだそう。正子がこっそりと自分の好きなように直したのでしょう。自分の好みを貫くことをモットーとした二人らしいエピソードです。

この母屋では、四季折々の庭の花とともに、次郎のゴルフクラブやスーツ、正子の愛した数々の着物や骨董(こっとう)などを見ることができます。
それらの品々はあるじを失った今も色あせず、往時の白洲家のにぎわいを伝えているように感じられるのが印象的でした。

数々の着物や骨董

母屋の目の前の竹林には、小さな三重塔がたたずんでいます。この下には、次郎の遺髪や愛用していた食器などが埋められているのだとか。実際の墓地は兵庫県の三田にあり頻繁に足を運べないことから、正子がたまたま所有していた鎌倉時代の塔を墓に見立ててここに据えたのだといわれています。

竹林にたたずむ小さな三重塔

次郎にあいさつをしたら、ぐるりと周回できる散策路を歩いてみましょう。

緩やかな上り口には、唐突に「鈴鹿峠」と書かれた石塔が姿を現します。鈴鹿峠といえば、三重県と滋賀県境にあるあの鈴鹿峠?と首をかしげたくなりますが、ここにもちょっとしたエピソードが。正子との結婚祝いに父親からイタリア車のランチア・ラムダを譲り受けた次郎は、正子を乗せて意気揚々と東京に向かったのですが、途中の鈴鹿峠で霧が出たために運転が危うくなり、正子は歩いて峠を下りるはめになったのだとか。
自宅の裏山をその鈴鹿峠に見立てたのか、石碑を建ててニヤリとする白洲夫妻からは、どのような出来事も楽しむ余裕が伝わってきます。

「鈴鹿峠」と書かれた石塔 

参考
『白洲正子“ほんもの”の生活』 白洲正子、他 新潮社
『白洲次郎・正子の娘が語る 武相荘のひとりごと』 牧山桂子 世界文化社
『白洲家の日々 娘婿が見た次郎と正子』 牧山圭男 新潮社
『次郎と正子 娘が語る素顔の白洲家』 牧山桂子 新潮社
『白洲家の晩ごはん』 牧山桂子 新潮社
『和樂ムック 白洲正子のすべて』小学館
『ゴーギャン2007年7月号 <特集・男が惚れる白洲次郎という男>』東京ニュース通信社

取材協力:旧白洲邸 武相荘

所在地:東京都町田市能ヶ谷7-3-2
開館時間:ミュージアム 10:00~17:00(入館は16:30まで)入館料1050円
※ミュージアムへの入館は中学生以上
ショップ 10:00~17:00
レストラン&カフェ 11:00~20:30(ラストオーダー)
定休日:月曜日(祝日・振替休日は営業)※夏季・冬季休業あり

公開日:2017年06月21日

この記事はいかがでしたか?
感想を教えてください。

さん

棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

RECOMMENDおすすめ記事はこちら

×
LINE登録はこちら