第2回はこちら ┃ 第4回はこちら

旧島崎藤村邸を訪ねる(2)

※トップ画像は、島崎藤村 (1872~1943) 写真:国会図書館所蔵

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
(「椰子の実」より抜粋 詩集『落梅集』より)

異国から流れ着いた椰子の実を眺めて、自らの故郷へ思いをはせたこの詩は、多くの人々の心に染み入り、名曲となって今でも歌い継がれています。
島崎藤村といえば、この歌を一番に思い浮かべる人も大勢いることでしょう。

藤村が穏やかな日々を送ったのは晩年のことであり、その前半生は「椰子の実」ののどかな印象からはかけ離れた、苦悩に満ちたものでした。
亡くなる前の約2年半、神奈川県中郡大磯町の簡素な家で静かに暮らした時間は、藤村にとってかけがえのないものだったに違いありません。
藤村が「靜の草屋(しずのくさや)」と呼んだこのついのすみかはそのままの形で残され、現在は多くのファンが訪れて藤村の面影をしのんでいます。

簡素だけれど居心地のよい住まい

書斎の北側には、6畳の和室があります。
藤村が暮らしていた当時は、女中部屋として使われていたようです。

▲女中部屋として使われていた和室

東側に向けて、小さな肘掛窓(ひじかけまど)がありました。
座った人が敷居に肘を掛けて外を眺めることができるということで、このような名前がついています。

▲肘掛窓

▲外側から見た肘掛窓

なんとも居心地の良さそうな雰囲気を醸し出していました。

▲壁に掛けられた時計

この部屋の時計は、藤村の時代にはなかったとのことですが、藤村が亡くなった午前0時35分を指していました。

和室の西側が、8畳の居間です。
ここに立つと、庭からの風がふわりと家の奥へと抜けていくことが感じられます。
藤村はこの家をひと目で気に入ったそうですが、その理由の一つはきっとこの心地よい風だったのでしょう。

▲寝室としても使っていたという居間

居間は、東南の2方向が広縁(ひろえん)に縁取られています。
広縁とは、幅の広い縁側のことで、この部分があることで和室に広がりが感じられます。
外からの日光が直接部屋に入らないため、ふすまや障子などの傷みを軽減させるという利点もあるそうです。

8畳の居間と広縁の間にはふすまが立てられ、このふすまを境にして天井に傾斜がつけられています。このような天井は茶室によく取り入れられるもので、掛込天井(かけこみてんじょう)と呼ばれます。

「掛け込み」という語はもともと、両替商が金銀を計る際に、はかりの目方をごまかすためにてんびんをあらかじめ傾けておくことを指していました。
その傾いたてんびんのさおの様子から掛込天井という呼び名が広まったのは、千利休の冗談が発端ではないか、と言われているそうです。

▲掛込天井

広縁の北側の突き当たりには扉があり、右側の扉を開けるとトイレになっています。
左側の扉は物入れなのですが、藤村は入居当時そのことを知らず、ある日開けてみてびっくり。
部屋にあふれていた書物を片付けることができる、と大いに喜んだそうです。

▲扉が開くことを知らず、藤村が「開かずの間」と呼んでいた物入れ

庭に面したガラスは、明治から大正時代にかけて製造されていた大正ガラス(*)です。
この家の建築当時は一般的なものでしたが、現在このような大正ガラスを作れる職人はほとんどいません。ガラス面にゆがみがあるため光が不規則に屈折し、ガラス越しの景色が微妙に揺らめいて見え、なんともいえないレトロな雰囲気が醸し出されていました。

▲今では希少な大正ガラスのはめ込まれた窓

静子夫人にあてた手紙で、藤村が「万事閑居簡素不自由なし」と書き記しているように、3間しかないこの家はとても質素です。
けれども、細部にわたってこだわり抜いて作られており、ここで暮らす時間が住む人を豊かな気持ちにしてくれるであろうことが感じられました。

(*)明治から大正時代に製造されたガラス。熱したガラスを吹きさおで円筒状に膨らませたものを平らに伸ばして板ガラスを作るため、表面に微妙なゆがみが生じる

参考資料
旧島崎藤村邸パンフレット
『島崎藤村コレクション1 写真と書簡による島崎藤村伝』伊東一夫、青木正美編(国書刊行会)
『島崎藤村コレクション2 知られざる晩年の島崎藤村』青木正美著(国書刊行会)
『群像 日本の作家4 島崎藤村』井出孫六著(小学館)
『現代日本文学アルバム第3巻 島崎藤村』足立巻一ほか編(学習研究社)
『茶室建築の実際』松嶋重雄著(理工学社)
大磯町観光協会オフィシャルサイト
http://www.oiso-kankou.or.jp/entry-info.html?id=20446/
大磯町観光情報サイト イソタビドットコム
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/
isotabi/look/meisyo/kyuushimazakitousontei.html

取材協力:旧島崎藤村邸(大磯町産業観光課)

所在地:神奈川県中郡大磯町東小磯88-9
開場時間:9:00~16:00
休場日:月曜日(祝祭日の場合は開場)、年末・年始

棚澤明子

棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

RECOMMENDおすすめ記事はこちら