アスリート 為末 大が語る(前編)「“体”が喜んでいることが幸福の本質」


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ボクとワタシの「幸福論」 第19話

「幸せだから笑うのではない。むしろ笑うから幸せなのだ」
こんな味わい深い言葉を新聞にプロポ(短めのコラム)として、毎日のように書き残した哲学者アラン。
そのプロポから幸福について書いた言葉だけを集めたものが、『幸福論』です。
「幸せ」をテーマに、さまざまな分野に取り組む人が、その人の『幸福論』を語ってくれる連載です。

プロポ53 「短刀の曲芸」 より
君のいまの苦しみは、ひどくつらいもの
だからこそ、必ず和らぐ

白水ブックス『幸福論』より


人生を歩む上で、絶対に正しい選択はない
 

元プロ陸上選手/株式会社侍 代表取締役 為末 大
 

悩める余裕があるときほど心は不安定

2001年に、カナダのエドモントンで開催された世界陸上・男子400mハードルで3位に入賞しました。五輪・世界陸上を通じて、短距離種目では日本人初のメダル獲得です。これまでの人生を振り返って考えると、その大会前の1年間、練習に没頭していた日々がものすごく充実していて、幸福だったと感じます。

メダルが欲しいというのが、一番大きなプライオリティーで、2番目なんてなかった。そのために毎日毎日、ひたすら走り続ける。何一つ、迷うことがないわけです。もちろん、その時はその時でつらいことがたくさんあったはず。アスリートの場合は、苦しみと幸せがセットになることが多いので、結果が得られた後、僕の中で記憶がばら色に再編集されている可能性はあります(笑)。ただ、毎日があれほどシンプルだったことってほかに思い浮かばないのです。投げられたボールを喜んで追い掛けていく犬も、当時の僕と同じような気持ちなのかもしれませんね。

人生を歩んでいく上で、絶対に正しい選択などないですが、これをやればきっと間違いないだろうと、なんとなくイメージできることってありますよね。そのイメージを信じて、それ一色にどっぷり染まれる日々を過ごしていたのが、当時の自分でした。この道は正しいのだろうか、自分は幸せなのだろうかなどと考え、悩む余裕があるときの方が心は不安定なのではないかと。

アスリートの成績がバチンって伸びる時期というのは、例えば目の前にパズルがあって、そのパズルを夢中になって解いていたら、知らないうちに1年が過ぎていたというパターンが多いのです。僕の場合もまさにそんな感じでした。ご飯食べるのを忘れていたとか、そういえば今日誕生日だったとか、後になって気付くことが多かった。自分が幸せかどうか考えなくていい幸せ、とでもいうのでしょうか。何かに没頭できる、夢中になれる時間って、本当に大切だと思います。

“頭で考える幸福”というものは実はなくて、“体で感じる幸福”しかないという話をよく聞きます。僕は主に体を使ってキャリアを培ってきた人間だから、特にその思いが強い。“幸せだ”と言葉にするのは頭だとしても、この状態は心地よい、そよ風が気持ちいい、食べ物がおいしい――それを感じているのは全て体ですよね。体には過去も未来もありません。今この瞬間を、体が喜んでいることが幸福の本質じゃないかと思います。

ただ、期待と現実のギャップにおいては“頭で考える幸福”が成り立つかもしれない。期待が低いときは幸せ、期待が高いときは不幸せ。競技時代にスランプから抜けた直後は、必ず幸せな気持ちになれました。朝目覚めて、足が痛くないというだけで、最高にいい気分なのです。逆に勝った試合の後は、だいたい嫌な気分になる。日本記録は更新できなかった、次の試合はもっと速くと、期待値が上がっていく。心が安定した日々を送るには、自分の中で期待値をどうコントロールするか――。すごく重要ですね。

“認識”を変えながら常に自分を前へ 

高校3年のとき、種目を100m競走から、400mハードルに変えることを決断。ここが僕の人生にとって最大の転機となりました。そう断言できる2つの観点があって、1つは、世界陸上で日本人初のメダルという結果を手にできたこと。もう1つは、それによって“社会的成功”に近づいたかというと、おそらく「そうだ」と言えるということ。

種目の転向を検討する際、両方の競技の向き不向き、好き嫌いをノートにずらずらと書きつづりました。そこで見えたのは、陸上短距離ではやはり100mがメジャー、400mハードルはしょせんマイナーという悲しい事実。ただ、そこで当時の僕がしたことは、ハードルをするかどうかという選択ではなく、“メジャーの何番手”を目指すのか、“マイナーの1番手”を目指すのかという選択だったのです。あのときの選択と決断が、その後の僕の生き方、考え方に通底していると思います。

陸上選手の興味は、主に事実(記録)と認識(プロセス)ですが、僕はもともと認識の方に強い興味があって、それをどう捉えるのかということに多くの時間と頭を使ってきました。大学からはコーチをつけず、全て自分で自分をマネジメントしてきましたしね。今振り返ると、勝ちたい欲求よりも、なぜ自分が速くなったのか、その理由を理解したい欲求の方が強かった気がします。

短距離競技はタイムがほとんど変わらず、4年たって100分の1秒縮んだらラッキーという世界です。現役時代、事実だけにフォーカスしているとあまりにつらいので、あの手この手で認識を変えながら何とか自分を前進させていました。つまり、幸せって実は気分ですよ、気分はある程度コントロールが可能ですよって、そういう話です。自分でそう思えていなかったら、長いスランプ時代もあったので、もっと早いタイミングで陸上をやめていたかもしれません。

アスリートの欲求の共通点を考えると、ある種の名誉欲と、僕の場合はこれが強いのですが、自分がどこまで行けるか知りたい、見てみたいという好奇心。それとは別に、力を発揮して勝利すれば十分という人と、世の中に対して言いたいことがあるので勝ちたいと思っている人がいる。そういったいくつかのパターンに分類されるのではないかと。

僕はどの傾向が強いかというと、“言いたいことがある”パターンですね。それができる立場になるためには、まず勝てる場所を選んで、勝つための努力を続け、結果を出さなければなりません。陸上選手としての僕は、たまたまかもしれないですが、ハードルに種目変更したことで、それらがうまくはまったわけです。もしかしたら違う人生の方がもっと幸せになれたかもしれないけど、それは誰にも分かりません。1つだけ言えるのは、何かを選択した以上、自分の心が納得するまで頑張り続けないといけないということです。

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語り手:為末 大
1978年、広島県生まれ。2001年エドモントン世界陸上選手権および05年ヘルシンキ世界陸上選手権において、男子400mハードルで銅メダル。陸上短距離種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者となる。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。12年、25年間の現役生活から引退。男子400mハードルの日本記録保持者(2017年10月現在)。現在はアスリートと社会を繋ぐ一般社団法人アスリートソサエティの代表理事を務める。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。『日本人の足を速くする』(新潮新書)、『走る哲学』(扶桑社新書)、『仕事人生のリセットボタン ―転機のレッスン』(共著/ちくま新書)など著書多数。

M0000OG2570(2018.02新)

スマイルすまい編集部

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