サバイバル登山家 服部文祥が語る(前編)「命の喜びを教えてくれるサバイバル登山」

サバイバル登山家 服部文祥が語る(前編)「命の喜びを教えてくれるサバイバル登山」

スマイルすまい編集部

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ボクとワタシの「幸福論」 第11話

「幸せだから笑うのではない。むしろ笑うから幸せなのだ」
こんな味わい深い言葉を新聞にプロポ(短めのコラム)として、毎日のように書き残した哲学者アラン。
そのプロポから幸福について書いた言葉だけを集めたものが、『幸福論』です。
「幸せ」をテーマに、さまざまな分野に取り組む人が、その人の『幸福論』を語ってくれる連載です。

プロポ44 「ディオゲネス」 より
行動する楽しみは つねに期待を上回る

岩波文庫『幸福論』より

獲物と駆け引きして自分の“生”を確かめる幸福

登山家・著述家 服部文祥さん

限界と自由――実は近しい概念

アラン「幸福論」の本

登山とは何なのか? 山に対峙(たいじ)し始めた大学時代からずっと考えてきました。ロープウェーで山頂に行っても登山とはいわない。かといって、家から身一つで山頂まで歩いて行って、帰ってくる人もいない。何をすれば登山なのかと煮詰めていき、自分の力で自分の肉体を山頂まで持ち上げて、自分の力で下りてくること、と最終的に考えました。それで自分が納得できた。そして、いき着いたのが「サバイバル登山」。

スマホはもちろん、ラジオやライトなど電気製品、テント、コンロ、燃料を持っていかない。食料は米を少しと調味料など、必要最低限なものだけ。山菜を採ったり、魚を釣ったり、時には獣を撃ったり、食べるものは現地で調達する。そうやって自分で企画した山のルートを、できる限り独力で長期間、旅する行為を楽しむようになりました。

子どもの頃、『はじめ人間ギャートルズ』みたいな原始時代の生活に憧れていました。でも、成長するにつけ、自分の人生は原始人とは真逆で、誰かが準備した道を親や周囲に勧められるまま何となく進んでいると感じ始めた。自分の人生を自分の足で歩んでいない。なんか変だ、とくすぶり続ける先で登山と出会い、いろんな山を登っていく中で、自己の技術と体力だけで岩を登るフリークライミングの思想が、もやもやしている自分の中にバーンと入ってきた。「あ!これだ!」と。

登山も自分も、自力を目指すことで、もっと自由になれるはず。原始の生活は無理でも、秘密基地とか、たき火とか、虫や魚を捕まえるとか、登山に取り入れたらもっと深く山に登れるのではないかと。「登山ってなんなんだ」と悩んでいた自分が、フリークライミングに出会うことでようやく、自分の登山を見つけたという感じです。

「一番楽しいところは遊園地!」と思っている人に、いくらサバイバル登山の面白さを説明しても分かってもらえないと思います。人間に都合よく整えられたものではなく、なるべくむき出しの自然が残っている場所で、自分で考えて自分の力で生き延びる、その一連の醍醐味(だいごみ)は体験しないと分かりにくい。

今、自由に工夫して、何かを成し遂げられる大きな遊び場は、山か海くらいにしか残されていません。山や海でさえ、けっこう人の手が施されている。僕の場合、整備された道や山小屋から逃れるように、わざわざやぶを選んで歩いて行くという感じ(笑)。

ただ、自然界ではないですが、プロの勝負の世界、例えば将棋盤の上とか、サッカーのピッチ上には、僕が求めている場所に近いものがあるのかもしれない。制約されたルールとフィールドという限定があるからこそ、自ら培った力だけで勝負できる自由とでもいうのでしょうか。限界に近づいたときに体が思い通りに躍動する、ギリギリの瞬間に思考が予想を超えて広がっていく。限界と自由って、実は近しい概念なのかもしれません。

 

“生”も“死”も喜べる覚悟を持って生きる

幸福について語る服部文祥さん

単なる快楽とか、つらくない状態をそのまま幸福と考えるのは、大きな間違いとは言わないですけど、そこにはたくさんの勘違いがある。快楽=幸せっていう“瞬間”はもちろんあっていいんです。例えば温泉とか。だけど、「つらい。けど幸福」っていう状態もある。“痛くて”幸福はちょっとあれだけど(笑)。

例えば僕は陸上もやっていますが、登山でも陸上競技会でも、その人が積み上げてきた知識、技術、体力がものをいうわけです。レベルが上がるほど火事場のばか力では対処できない。自分の持っている能力を冷静に発揮し、その結果何かを成し遂げている手応えがあったら、たとえその時つらさを伴っていたとしても僕にとってはものすごく幸福です。まあ自己満足、自己陶酔かもしれない。それでも、ラクで楽しいからそっちが幸福、つらくて厳しいからそっちは不幸という考えは、間違っていると思います。

生きている以上、本来は危険と隣り合わせが当たり前。僕たちが生きている現代社会は、人生や生命が、終わってしまうことに対するマイナスイメージが強過ぎる。もちろんある意味では正しいのでしょうが、ちょっと異常になっていないかと。なぜなら、人間は誰にも等しく死が訪れます。にもかかわらず、今日までは健康だったから幸福、明日、病気が発覚したから不幸っていうのは、僕の中ではしっくりこない。

病気の先にある死が不幸だと考えたら、生まれた瞬間に全員が不幸決定じゃないですか。そうではなくて、さまざまなリスクを受け入れながら歩む人生の時々に、確かな幸福があるはず。生まれたことを喜ぶのなら、同時に死や病気も喜ばないと話の筋が通らない、自分に都合にいい部分だけ受け入れるというのは、人生を歩む覚悟として美しくないのではないでしょうか。

若い頃は、自分はどこまで挑戦できるのか、思い描いている自分になれているのか、それを自分の肉体で具現化できるのか知りたいという思いがものすごく強かった。でも、50歳が近づいてきたこともあって、岩壁や氷壁をカリカリと登るとか、高い山を目指すという登山はかなり減りました。サバイバル登山を始めてから、獲物との駆け引きや、自分の“生”を確かめる側面を山に求めるようになっています。ちなみに獲物の場合、相手は生き物ですから、いつだってお互い一期一会。まったく出会いがないときは、拍子抜けするぐらい会えない。そんなときはオカズはありません。我慢も食料計画の一部です(笑)。

素晴らしい獲物にすごくいい状態で出会って、それを自分の技術を駆使することで釣り上げたり、撃ったりできた瞬間はものすごく幸せ。逆だったらどうなんですかね。自分が獲物だったら。例えば自分が山で熊にやられたとしたらどうか。僕は、もし自分が熊にとってごちそうだったら、それを幸せだと思いたい。仕留めた側も、仕留められた側も幸福だったら最高だなと。難しいですけど、僕にとって、それが究極の理想ですね。

森林のすぐ側にある服部文祥さんのご自宅

語り手:服部文祥

1969年、横浜市生まれ。94年、東京都立大学フランス文学科(ワンダーフォーゲル部)卒業。オールラウンドに高いレベルで登山を実践し、96年、世界第2位の高峰K2(8611m)登頂。国内では、剱岳・八ツ峰北面、黒部別山東面などに初登攀が数本ある。99年から長期山行に装備と食料を極力持ち込まず、食料を現地調達する「サバイバル登山」を始める。妻と3児と横浜市に在住。山岳雑誌『岳人』の編集部員でもある。『サバイバル登山家』(みすず書房)、『アーバンサバイバル入門』(デコ)、『息子と狩猟に』(新潮社)など著書多数。

公開日:2017年12月08日

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