家が紡ぐ物語 いわさきちひろ編 第4回

家が紡ぐ物語 いわさきちひろ編 第4回

棚澤明子

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私たちを迎えてくれる「ちひろの家」

※トップ画像は、いわさきちひろ バラと少女 1966年

柔らかで淡く、消えてしまいそうなほどに透き通った水彩で描かれる、小さな子どもたち。
どこまでも甘く、はかなく、美しい世界。
その絵があまりにかわいらしいので、私たちはなかなか気が付きません。
いわさきちひろ、という鈴の音のような名前の向こうに、強い意志を持った一人の女性がいたことを。
この国が戦争へと突き進む中で青春時代を過ごし、空襲で全てを焼かれながらも、あどけない子どもたちを描き続けた彼女の怒りと祈りを。
ちひろの手から生み出された子どもたちは、大人の心の奥底までを見透かすようなまなざしで、今も静かにこの世界を見つめ続けています。

「ちひろ美術館・東京」を訪れる

ちひろが濃密な22年間を過ごした下石神井の家。
その跡地に新たに建てられた「ちひろ美術館・東京」(東京都練馬区)に足を運んでみました。
こちらは、ちひろの作品だけでなく、欧米、アジア、東欧やロシア、南米やアフリカなど34の国と地域の画家207名の作品、約2万7200点が所蔵された世界初の、そして世界最大規模の絵本美術館です。国際アンデルセン賞画家賞受賞者も12名含まれており、クオリティという点からも注目すべき美術館となっています。
ちひろが亡くなった当時、絵本画家の作品を美術作品として扱う風潮は世界的にもまだ生まれておらず、ちひろの作品をきちんとした形で受け入れてくれる美術館は存在しませんでした。
このような状況に対する危機感から、ちひろの作品を保管・展示するためだけでなく、絵本を貴重な文化と考え、原画を美術作品として位置づけた美術館を作らねばという使命感が遺族の間に生まれ、1977年に「ちひろ美術館・東京」が誕生したのです。
現在のコレクションは、この理念に共感した多くの絵本画家から安価で譲り受けたり、寄贈されたりした作品などから成り立っているそうです。

ちひろ美術館・東京

入り口を入ると右手にミュージアムショップ、左手にはカフェ。カフェの先には展示室と、ちひろのアトリエを復元したコーナー。2階は、展示室のほか、3000冊の本が並ぶ図書室、親子でくつろげる「こどものへや」や授乳室があります。

ちひろの息づかいを最も強く感じられるのは、彼女が実際に使っていた家具や画材で復元した、1972年当時のアトリエです。

ちひろのアトリエを再現したコーナー

▲ちひろのアトリエを再現したコーナー

画机は、小柄なちひろが立っていても座っていても描ける高さのもの。画机の背面には、世界文学全集など、ちひろが愛読していた本が並んでいます。右手に見える小さな応接セットでは、編集者たちが絵の仕上がりを待っていました。

その後ろには、ちひろが愛用したピアノ。本格的に習ったことはありませんでしたが、『エリーゼのために』や『乙女の祈り』などを好んで弾いたそうです。

画机の上を見てみましょう。パレットや筆が左側にあります。
そう、ちひろは左利きでした。

ちひろの画机

▲ちひろの画机

ハサミも持ち手が左向きに置かれている様子

▲ハサミも持ち手が左向きに置かれている

画材のほかには、ラジオとトランプ、鏡がいつも置かれていました。筆を動かしているときにはラジオで音楽を聴き、筆が進まないときにはトランプで一人占いをしていました。鏡は、気持ちを切り替えたり、心を落ち着かせたりするために使っていたのかもしれない、とひとり息子の松本猛が後に記しています。

ラジオとトランプが置かれたちひろの画机

▲ラジオとトランプが置かれたちひろの画机

部屋のドアや柱も、当時のものがそのまま使用されています。

古き良き昭和を感じさせる建具

▲古き良き昭和を感じさせる建具もそのままに

こちらは、ちひろが使っていた画材です。

ちひろの画材

▲ちひろの画材

独特のにじみは、水に溶ける水彩絵の具だからこそ表現できたものでした。
線画は、割り箸を好みの太さに削ってインクをつけて描くこともあったそうです。

ちひろが愛用していた洋服も展示されています。

ちひろの洋服

▲ちひろの洋服

おしゃれだったちひろは、自分に似合うものをよく知っていました。
リボンやレース、パフスリーブのワンピース。つばの広い帽子には、自ら描いた花模様。

手作りも得意で、型紙がなくても簡単に洋服を仕上げて、周囲を驚かせました。ひいきにしていた銀座の洋装店「ルネ」は、10歳ほど後輩だった向田邦子も通い詰めた店だったそうです。

展示室では、ちひろの作品の原画や直筆の原稿などを見ることができ、その内容は、年4回変わります。そこに置かれた大きなソファは、家を新築した当時からちひろ夫婦が愛用していたものです。

展示室のソファ

▲展示室のソファ

善明の弁護士仲間であった坂本修氏は、善明と共に夜通し仕事をした後、このソファに身を横たえ、ちひろが挿絵を描いた童話を読みながら眠った思い出をつづっています。もちろん美術館を訪れた人々がここに座ってくつろぐこともできます。

外には、ちひろがこよなく愛した庭が広がっています。

美術館の中庭「ちひろの庭」

▲ちひろが愛した草花が咲く、美術館の中庭「ちひろの庭」

小さな庭ですが、ここにはアジサイ、アヤメ、グラジオラス、バラ、チューリップ、クロッカス、ヒヤシンス、スイセン……など、かれんな草花がおよそ40種も植えられていました。
ちひろはどんなに忙しくとも、仕事の合間にこの庭を丹精することを楽しんだそうです。
当時、ちひろの手伝いをしていた女性は、秋になるとちひろから「掃かないでね、黄色い絨毯にしておいてね」と言われたことを回想しています。

新宿すずやの「いちごのババロア」

▲いちごのババロア

最後はカフェで、ちひろが好んでいたという新宿すずやの「いちごのババロア」を再現したデザートをいただきました。

ピンクの濃淡がかわいらしいババロアは、「ももいろが一番好きだった」というちひろの世界そのもの。そして、口の中いっぱいに広がるいちごの甘酸っぱさは、懐かしい昭和のお母さんの味でした。

大正デモクラシーから第2次世界大戦、そして戦後へと、昭和を駆け抜けたちひろ。
彼女の描く子どもたちがはかなければはかないほど、平和への祈りは強烈に際立ち、見る者を圧倒します。
ちひろから託されたものはずしりと重たく、こちらを見つめる桃色や空色の子どもたちを前に、私はただ立ち尽くすしかありませんでした。

参考資料
『ちひろの昭和』竹迫祐子・ちひろ美術館編著(河出書房新社)
『ちひろさんと過ごした時間 いわさきちひろをよく知る25人の証言』黒柳徹子・高畑勲ほか著 ちひろ美術館監修(新日本出版社)
『文藝別冊 いわさきちひろ総特集』ちひろ美術館監修(河出書房新社)
『ちひろを訪ねる旅』竹迫祐子(新日本出版社)
『いわさきちひろ 知られざる愛の生涯』黒柳徹子・飯沢匡著(講談社)
『妻ちひろの素顔』松本善明著(講談社)
『伝記を読もう いわさきちひろ』松本由理子(あかね書房)

取材協力:ちひろ美術館・東京

所在地:東京都練馬区下石神井4-7-2
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料:大人800円、高校生以下無料
休館日:月曜日(祝休日の場合は開館、翌平日休館)、年末年始 ※2月は冬期休館

公開日:2018年03月23日

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棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。

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