家が紡ぐ物語 石井桃子編 第2回


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かつら文庫を訪ねて(2)

クマのプーさん、ピーターラビット、うさこちゃん。
幼い頃、私たちのすぐそばにいた仲間たちは、みんな石井桃子にそっと手を引かれてやってきました。
表紙に記されていた「いしいももこ やく」という字面の優しく、柔らかな気配。
「いしいももこ」と書いてあれば面白いに違いない、と信じていた幼い日の自分。
親になり、わが子へ読み聞かせる番になって「いしいももこ」と再会した日の感慨。
それらは、生まれ育った場所や時期が違っても、私たちの多くが心の奥底にひっそりと抱き続けている記憶なのではないでしょうか。
101年の生涯を通して200冊以上の児童書を世に送り出した翻訳家であり、編集者であり、作家でもあった石井桃子とは、いったいどのような女性だったのでしょう。
その人生をひもとくため、東京都杉並区にある「かつら文庫」(旧石井桃子邸)を訪ねてみることにしました。

 

在りし日の暮らしが感じられるプライベート空間へ

桃子のプライベートスペースだった、東棟の2階へ上がってみましょう。
やや急な階段ですが、95歳を過ぎても桃子はここを自分で上り下りしていたそうです。

廊下の書棚には、桃子が編集に携わった「岩波少年文庫」の初版本などがずらりと並んでいました。この一角を見るだけでも、桃子が児童文学にかけた情熱が伝わってきます。

廊下を抜けたところは、当時の居間です。
打ち合わせなども、ここで行われていました。

桃子が使っていた食器が、そのまま残されていました。
桃の絵がついた湯飲みは、実家から持ってきたものなのだそう。

温かな光が満ちた、なんとも居心地の良さそうな書斎。
桃子の机は、もともとこの家の持ち主であり、若くして亡くなった親友・小里文子が使っていたという形見の品です。

机の上には当時のままの文房具が。
筆記用具にはあまりこだわらなかったという桃子ですが、お気に入りのボールペンの替え芯はたくさん常備されていたそう。

終戦後、約5年間、宮城県で農業を営んでいた桃子。
『ノンちゃん雲に乗る』の印税で乳牛を購入し、「ノンちゃん牛乳」を作って販売していました。

当時をしのぶ牛乳瓶が机の上に。

自分の手がけた作品には、何度でも赤字を入れるタイプだったといいます。
一度出版した本も、増刷のたびに手を入れたのだそう。
晩年には電子辞書も使いこなしていました。

農業生活を懐かしんでいたのか、木彫りの牛の人形がひっそりと飾られていました。

書斎の隣の部屋は、当時寝室として使われていたそうです。
現在は、さまざまな資料が展示されています。

桃子の鏡台が残されていました。
「子ども相手の仕事の人は明るい色の服を着なくては」と話し、週に一度は美容室に通うなど、常に身だしなみに気をつけていた桃子。とはいえ贅沢をすることはなく、鏡台は小ぶりなものでした。

「M.I」のイニシャルが入ったスーツケース。
これを抱えて、ヨーロッパの石畳を颯爽と歩く桃子の姿が思い浮かびます。

『HORN BOOK』という、アメリカの子どもの本の書評誌が年代順に並べられていました。

戦前から取り寄せて読み、やがては編集者のミラー夫人と手紙でやり取りをするようになりました。
桃子の留学の際に、そのスケジュールを練ったのもミラー夫人だったそうです。
『ちいさいおうち』の著者、バージニア・リー・バートンさんが来日し、かつら文庫を訪問した後には、その報告を『HORN BOOK』に英文原稿で寄稿しました。

2階をじっくりと見学した後、庭に出てみました。
かつては子どもたちに開放されていて、文庫に来る子どもたちは読書のあいまに庭に出て遊んでいたそうです。

昔、この庭には、古い籐椅子がひとつ置かれていました。
近所の野良犬の指定席だったというその藤椅子に腰かけた人物として、今でも語られるのが太宰治です。

この家に住み始めた1939年頃、桃子は『ドリトル先生「アフリカ行き」』の翻訳を依頼した井伏鱒二をよく訪ねており、そこで太宰とも顔を合わせるようになりました。
井伏が太宰を連れて桃子の家にふらりとやってきたのは、戦争が激化していた時期のある日の午後。その目的は、桃子が入手していたわずかな洋酒だったそうです。

はにかみやの2人は部屋には入らず、太宰は外にあったそのボロボロの籐椅子に腰をかけました。目の前で洋酒を飲む文豪2人の姿を、桃子は後で「とてもうれしい光景だった」と回想しています。

太宰の死後、桃子にばったり会った井伏は、太宰が桃子に憧れていたことを打ち明けました。そのとき桃子が「私なら、太宰さんを死なせなかったでしょう」と答えたことは、今でも語り継がれています。

スキャンダルまがいのうわさは望まなかったのでしょう、生前の桃子は太宰と絡めて語られることを好まなかったようです。けれども、これは桃子が、絵本の向こう側にいる子どもたちだけでなく、老若男女あらゆる人々を魅了する多面的な魅力を持った女性だったことを伝える、素敵なエピソードではないでしょうか。

 

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参考資料
『ひみつの王国 評伝 石井桃子』尾崎真理子著(新潮社)
『とんぼの本 石井桃子のことば』(新潮社)
『家と庭と犬とねこ』石井桃子著(河出書房新社)
『別冊こどもとしょかん かつら文庫の50年』(東京子ども図書館)


取材協力:公益財団法人東京子ども図書館
かつら文庫所在地:東京都杉並区荻窪3-37-11
◆子どもの利用
第1~4土曜日(祝日、夏期・冬期の特別休館を除く) 14:00~17:00
◆大人の利用
原則火曜・木曜(祝日を除く) 13:00~16:00 案内料500円がかかります
※東京子ども図書館へ事前の確認が必要。詳しくはお問い合わせください(03-3565-7711)
http://www.tcl.or.jp/

M0000OG1859(2017.10新)

棚澤明子

棚澤明子

フランス語翻訳者を経てフリーライターに。ライフスタイルや食、スポーツに関する取材・インタビューなどを中心に、編集・執筆を手がける。“親子で鉄道を楽しもう”というテーマで『子鉄&ママ鉄の電車お出かけガイド』(2011年・枻出版社)、『子鉄&ママ鉄の電車を見よう!電車に乗ろう!』(2016年・プレジデント社)などを出版。TVやラジオ、トークショーに多数出演。ライフワーク的な仕事として、東日本大震災で被災した母親たちの声をまとめた『福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を』(2016年・彩流社)を出版。